以下は、昭和二十五年「救世大霊教」設立当時の資料である。

 

 

「救世大霊教」は戦後に連合国占領下の日本で1946年〔昭和21年〕1月1日に官報により発布された天皇の詔書。俗称「人間宣言」により「天皇が神から人間に歴史的変貌を遂げた」とする世間解釈から、学会関係者などの間に於て大論争の上に、戦後は反天皇路線の中心思想を築こうと試みた経緯によって設立された宗教である。これに対して信念生活法人会は宗教の団体では無く、信念生活を提唱するだけの団体である。

本教団ハ人、夫々ノ魂ノ善美ヲ禮讃シ、己オ自重シ、宇宙諸々ノ靈ヲ齊リ、崇敬シ、之ニヨリ人ノ傲慢心ヲ圧サエ、進ンデ民族ノ和平ト福祉ノ為ニ愛ノ生活ヲ布教、教化スルヲ以テ目的トス

 

奉齋神

 本尊トシテ宇宙大靈、大神靈龍王、稲荷大明神、諸々人類靈〔祖靈、英靈、人神、生靈等〕、諸佛等ヲ祠ル



■迷信とは何んぞ

 

國を滅ぼした迷信があなたの膝下で家庭をこわしている

 

 是迄社会の人が気付いておっても、どうにもならなかった事で、家庭の裏から大きく文化を妨げていたものがある。それは迷信宗教と、迷信的治療と、占易者的迷いである。

 占者の言葉に乗って結婚してしまったり迷信宗教家の口車に乗って『あなたは早死にする!』なぞと驚かされて、たいへん憂鬱になったり古い仲人口にのせられて結婚して一生を棒にふる家庭が沢山ある。

之等の仕事は家庭の裏でやる事で、最も大きな問題だ勿論這を云ふ心理治療や、民間治療でも、医者に見離された、むつかしい病気がすくすく治って行く本道があって、一般家庭では内容を知らないから、玉と瓦を混淆して見わけがつかなくなってしまう処から、ほんとうに信じられるものでも排斥する場合が相当ある。なるほど現代の医學は自然科學の領分で、正しいものに相違ないが、総ての病気が癒おると謂うものではなく、医者であっても平素体験しておることだが段々研究の結果進歩して行くものである。

そこで若い医者の中にも此理由が判らないで自分の研究以外のものは、みんな迷信だと心得ている向もある。之は科學迷信家で=だが事実を研究的に観て行くと民間治療とか健康増進法なぞには大変立派なものがあった。某氏は、姿勢のとり方一つで卒中病が平癒した。=又ある青年は慶応病院で死の宣告を与えられたのに民間薬で癒った体験がある。

こんな事はあそこにも、こゝにもあるのだ此智識を正しく皆様のお家庭に知って戴くと、つまらない迷信治療や、あぶない迷信の神や、占的迷いなぞとはっきり別けられるのである。=つまり迷信を破るために迷信を知り、本道と迷信と科學の境を知る事で、正しい民間治療法正しい優生結婚、明るい身の上相談、正しい信仰は信念を握む前ぶれとして必要だろう。

一概に医者以外の仕事を迷信として排斥する事は逆に科學迷信家の申す事で=或医者を信じたばかりに子を殺ろす例もあり、又注射攻にあってえらい思いをしたためしもある。

 皆様の家庭の裏に巣を作っている迷信心理を研究したり利用厚生する事は今日経済負担の大きい世に、大変な利益になるもので、一寸した事にも不安を感じて他人のやっかいになったり、医者が毎日出這入るようでは=又之えつけこむ迷信宗教家におどかされない心のかまえを養ないたいのである。それがほんとうの神のお聲であった。

 


■希望が持てない今の世にも

 

 

○科學坐禅を行なってまことに人の偉力を知った。

岩 淵 大 殿

 

 

 一ト口に禅と言えば禅宗だけが『行』として行なっていた坐禅を思い出すが、私が爰で言う禅はそのように迫いものではない。それは吾々人が常に生活している間に色々な姿勢をとるが其間に結跏したり、趺座する姿勢の角度を言うのである。それが科學禅である。つまり科學禅は無駄な時間を空費しない合法的な姿勢生理學である。禅宗坊にして正座の味いを知らず真言密教を説く御坊にして曼陀羅の心を知らずで専門家必ずしも行に通じていたとは思えない。『普勤坐禅儀』の中に承陽大師即道元が坐禅の味を示して『箇の不思量底を思量せよ不思量底如何が思量せん非思量此乃ち坐禅の要術なり』と言ってゐる。此ような言葉は科學では A即B=B即Aと同一の意味である。だが科學禅は心の一元化だけを望むのではないなるほど人間は矛盾の中に火をたいているが、そこにも無限の味いがある。同時に其矛盾を捨てゝ君も俺も同一物にして仕舞う処にえらさがあったように、金がないのに生活を楽しめるものである。だから昔は一日中妻や子供に米を与えないで趺座だけしておれば、よかったかも知れないけれ共時代は、其必要が無くなった人は年を経るに従って、叡智が盛り上がるから坐禅も段々進歩して、其方法が科學の軌道に乗るのである。道元の普勤坐禅儀にある禅法では=方法として=厚い敷物を引け其上に坐して、先づ右の足を以て左の股の上に安置し左の足を右の股の上に安ずる。之が結跏と言うとあり別に半跏と謂うのは左の足を右の股え乗せればよい。そうして足が定まったら次に手の結び方である。右の手を左の足の上に安じ左の掌を右の掌の上に安じ、両の大拇指面え相さゝふ、乃ち正身端坐して左に則ち、右に傾き前後に傾くな耳と肩と対し鼻と臍と対せしめんことを要すとあり、又舌上の腭に掛けて唇歯相著け目は須らく常に開らくべし。鼻息微に通じ■相既に調ひて欠気一息し、左右揺振しコツコツとして坐定して非思量に三昧せよと書いてある。此方法は申すまでもなく昔式坐行の方法であるけれ共かゝる方法だけを坐禅行と思うのは誠に迫まい事で決して此ような○度決定した姿勢だけを「坐行」としないで勿論、正位の姿勢で座る事も必要であるが、それよりは平素の姿勢の執り方が肝要であった。それなれば科學禅は習んで何んな利益があるのかと云うに、具体的には一、健康永生き一、死生に達観一、各々の特長がはっきりして、美術を好むものは美術が急に上手になり音楽好きの人は急に音楽がうまくなり、學問好きの人は學問が発展し遂に不抜の信念生活を楽しんで享け得られる心境に到達するのである。過去の偉人、傑物で此心懸けのなかった人は一人もない私は百歳の長壽をまっとうする自信がついた。私の共達はあと十数年か二十年で運命が決するだろう。此時どす暗らい墓場の中で俺も岩淵にあやかりたかった。オーイ岩淵!ちっとは俺れの所えも遊に来てくれとドナッても私は行く=とは言はない。幸とは金を儲ける事だけではない健康で永く子供や孫の前途を見て楽める事だ。

 

昭和二十六年六月一日

 


『 教典 救世大靈教 ― 人間なくして神を知る者は誰 ― 』 教団出版物 ※大殿哲學派 

 

第一章 宇宙と人と神の区別

 

  第一節 宇宙

  第二節 人

    第一款 人とは

    第二款 人の心の生活は二重の人格

 

  第三節 神

    第一款 絶対神

    第二款 相対神

 

第三章 信仰と宗教

 

  第一節 信仰とは何んなものか

  第二節 宗教とは何んなものか

        宗教は人々の神の信仰を土台として或目的を持って集まる団体である

 

  第三節 信仰は魂の問題

  第四節 今の世にも既成宗教がほんとうに魂の問題に役立ってゐるか

  第五節 過去の権力者は宗教を利用した

 

第三章 新らしい宗教を起した理由

 

第四章 大靈教は飽迄解放の宗教である

 

  第一節 

    第一款 本教団の本尊

    第二款 人は靈を宿す眞善美の完成体であった

    第三款 人を罪の子と見るのは昔の思想

    第四款 人の自由の強さを知って何人も大靈をおろがむ心の用意が得たい

          之がなければ人は残忍薄情になる

 

第五章 何うやったら善美な自分の靈によみがえるか=其方法

 

  其ノ一 大靈と祖先と諸々の生靈 死靈を祠り

       完成体として生み育てゝ下さる大靈の恩に感じ、過去も将来も人の価値を知らず

       罪の子と見てさげすむ兄弟達の為に神に其誤りを祈り

 

  其ノ二 姿勢を改める(儀式を重ずる)

 

第六章 人は希望に活き幸を求める為に愛の生活をする

 

  其ノ一 自分を愛せば 健康と長寿が得られ

  其ノ二 他人を愛せば 徳を得

  其ノ三 民族を愛せば 完全な道徳が生れ

  其ノ四 人類を愛せば 平和が来る

  其ノ五 宇宙の真理を愛し美象を愛せば 創造 芸術 宗教 科學は病的にならない

 

第七章 結ビ